麻雀の社会学-1 <東大の卒論> 井出洋介

第一章 麻雀の歴史

現在、ゲームの中で麻雀ほど複雑な(ルールにおいても、ゲーム展開の点でも)ものは他にない。よく「麻雀を考え出した人はノーベル賞ものだ」といわれるほど複雑で、しかもプレーヤーを虜にするおもしろさを持っている。しかし麻雀が昔から現在のような姿で行われていたのではない。その起源が遠い昔、中国の宮廷で発明されたものであることは確からしい。現在の一三六枚による「清麻雀」(※1) が確立したのは十九世紀半ばのことであるという。

我が国への渡来は、明治四十三年中国から名川彦作(※2)という人が持ち帰ったものとされているが、一説にはそれより早く横浜の外国商館がアメリカから持ち込み使用していたとも言われている。(※3)当時は、麻雀牌はもちろん輸入品であり価格は高く数も少なかったので、これを入手して利用できる人も一部のエリート層の人々に限られていたが、特に文士たちの間でもてはやされた。菊池寛をはじめ、久米正雄、直木三十五、里見弴などで、自分たちが楽しむばかりでなくそのペンで『文芸春秋」などに麻雀記事を載せる (※4)ことによって一般への普及の力となった。

また、日本では麻雀クラブが基盤となって麻雀人口をふやしていった。

本場中国の麻雀を身につげた空閑縁という人が作った東京クラブをはじめ、鎌倉クラブ、丸ノ内クラブ、大阪麻雀クラブなどである。日本に比べ欧米での麻雀の大衆化がすすまなかったのは、麻雀がカード・ゲームの伝統の上に継ぎ木されるかっこうとなったため、日本のグラブのような、家の「外」への拡がりがなく、「家庭ゲーム」の枠をこえることがなかったためであるという見方もある。そして、昭和四年には、東京クラブを母体とする「日本麻雀連盟」が結成され、文芸春秋社社長であった菊池寛が初代総裁となって、標準ルールを発表したり、麻雀選手権大会を開催するなど、一般大衆に麻雀の存在価値を伝えるのに大きな役割を果たした。

しかし、当時の社会はファシズム台頭の気配をのぞかせた時期でもあり 官憲からのきびしい取り締まりを 受けた者も少なくない。(※7) ところが、麻雀賭博事件が新聞紙上に出ると、かえって一般大衆への好奇心をそそることになったようである。そして、社会が不況に陥っている中、新しい刺激を求める人々にとって、「ギャンブルとしての麻雀」プームを作ってしまった。当時のルールは、基本的には「アル・シー・アル」(※9) といって現在のリーチ麻雀に比べて点数も低いし、いわゆる「インフレ」化したものではなかったがこの頃、一つの画期的なルール改正があった。それまでは放銃(ふりこみ)でも三人払い(※10)であったのを、一人払い(放家包) (※11)にしたのである。

それも東京の下町のファンの間で始められたものが広まったルールなのである。

「ツモ和りが三人払いなのは当然としても、ロン和りも同じなのは理屈に合わない。放銃者の責任として一人払いにすべきだ。中国麻雀が三人払いのルールだからといって、いつまでもそれを真似する必要はない。ロン和りは一人払いとするのを『日本麻雀』と決めればいいというまことにもっともな考え方」(※12)であろう。

ところが、この第一次麻雀ブームも戦争の波には勝てず、日華事変が始まると「敵性遊戯」と呼ばれ、さらには「亡国の遊び」とされ、しだいにおとろえ、あるいは地下に潜伏(※12)するかっこうになった。こうして約十年の空白期間ができる。しかし戦争が終わると麻雀はすぐ甦る。しかも新しいルール、「リーチ」と「ドラ」が、誕生した。リーチ制度はそれまでにもなかったわけではないが、現行のものとはちがっていた。

それは古くから中国の一部で行なわれていたもので、一巡目にテンパイした時にのみ認められる(現在のダブルリーチに相当する)一翻役として大正末期から昭和初期にかけてごく一部の人の間で採用されていたものだった。それが局の途中にかけるリーチも認められるようになったのである。この「途中のリーチ」に関しては賛否両論があり、再建された日本麻雀連盟でも認めていないほどであるが、 一般麻雀愛好家の間では急スピードで浸透していった。

「ドラ」の方も決め方こそ現在と異なっていた(※14)ものの、 運の要素を強めたルールが大衆にうけて広まり、現在の次ドラ方式も昭和三十年代には定着した。

このリーチ・ドラ麻雀に伴い、 新しい和り役や一翻しばり、リャンゾロ場などのいわゆる「インフレ化」がすすんでいった。それはまた、ギャンブルとしての麻雀の魅力を増長するものであり、昭和二十年代の中頃からしばらくの間いわゆる雀ゴロたちの暗躍した時でもあった。「ケン師」とか「ゴト師」と呼ばれるイカサマ麻雀打ちは小説や劇画の中にだけ登場するものではなく実在する。

もちろん小説や劇画では現実よりも誇張した表現をしているが、彼らは当時、麻雀だけが生活手段であり、必ず勝たねばならず、そのためにイカサマを使ったのである。その頃は雀荘側も今のようにイカサマ防止対策(※15)が万全でなく、客もその手口に無知な人が多かったこともイカサマ麻雀横行に拍車をかける原因になったかもしれない。このような雀ゴロたちも今ではずい分減ってきているのだが、彼らのイカサマが麻雀のいかがわしさうしろぐらさのイメージを助長してきたことは確かであろう。

こうしたアウトサイドな麻雀に対し、それとはまったく違う方向で真摯に麻雀をとらえようとする人々もいた。

昭和二十二年に復活した日本麻雀連盟は、前にもふれたように「インフレ化」に反対しながら、一切金品を賭けずに純粋に麻雀をゲームとして考え、会員同士で技術の研鑚をはかった。そして昭和二十七年には報知新聞社主催「報知杯争奪麻雀トーナメント」が開かれ、連盟の高段者ばかりのこの大会の牌譜が半年以上にわたって報知新聞に掲載された。

さらにこのトーナメントの際に創案された「報知ルール」でリーチ制度がとり入れられ(※17)急激に普及したリーチ・ドラ麻雀の全盛を迎えてゆくのである。そして連盟のほかに、新たに「日本牌棋院」、「日本麻雀道連盟」といった団体が設立された。これらも、その目的は連盟と同様「スポーツ麻雀」であるが、ルールにリーチ・ドラをとり入れていることにより一般大衆の麻雀との差異が少なくなじみやすい競技麻雀の草分けと言えよう。

そして昭和四十年代にはいると テレビにも麻雀コーナーが登場しスポーツ新聞や週刊誌には麻雀欄が必ずあり、「名人戦」というタイトルができ、さらに麻雀専門誌が創刊されタイトル戦の数もふえてきた。(※18)今や第三次ブームのピークと言われているのだがそれでも現状はまだまだ「麻雀の市民権獲得」には至っていないようである。

 

【注】この章全般にわたって次の出版物に準拠している。

井上 俊「遊びの社会学」16貢 “麻雀の歷史と現状” 一九七七年 世界思想杜

小栗育大「風俗の裏側で根付いていた戦前の麻雀」『週刊大衆増刊号・麻雀大全科』一九七六年 双葉社

なぎひろゆき「リーチとドラの誕生が変えた戦後の麻雀」『週刊大衆増刊号麻雀大全科』一九七六年 双葉社

「麻雀白書」『麻雀新聞』一九七八年 一月 マスコミ文化協会

※1 花牌を排除した純粋な麻雀

※2 当時カラフトの大泊中学校の教頭だったが、明治三十八年に英語教師として中国に招かれ、そこで麻雀を覚え、帰国するときにもちかえったとされている。

※3 アメリカ経由の役(たとえば、七対子や縁一色)がある事から考えても、時期的にどちらが先かはともかく日本の麻雀は中国、アメリカの二国のルールから発展させ完成させていったものである

※4 たとえば、大正十五年三月号、久米正雄「麻雀の話」昭和五年十月号からの連載、長尾克「麻雀講座」など。

※5 久米正雄ら、鎌倉に在住する文士たちによるクラブ

※6 井上 俊 前掲書

※7 福田欄童(尺八演奏家)氏などの名士もかなりいた。

※8 麻雀は、流行し始めた頃からやはり賭けを伴っていたようだ。しかし、この頃の麻雀のルールでは、点数がそれほど動かず、賭け金(レート)も低かった。

※9 現在一般に行なわれている麻雀と異なり、役がなくてもあがれる「リャンゾロ」がつかないので点数が低い。「アル・シー・アル」 とは22符の役なし和り(最低)を意味する。

※10 ふりこんだ人と、他の人が二・一の比で払う、ちょうどつもられた時の親と子の違いと同じ。

※11 「包」(パオ)とは責任払いのことである。放家包はふりこんだ人の責任払い、役満の場合の「包」は、よく知られている。

※12 天野大三(現日本牌棋院総裁)の言、小栗育夫前掲書より。

※13 営業するクラブがほとんどなくなってしまい、もぐり営業のクラブや博徒などが世をはばかって行なう「御開帳」の場に出入りするなど。

※14 当初は出たサイコロの目でドラを一枚だけ決めていた。その後ドラが王牌の上に固定されるようになったのは昭和二六年ごろ。 (当時は現物牌)

※15 完全伏せ牌で、サイコロも二度振りで行なうなど。

※16 牌譜については、第四章の「麻雀ジャーナリズム」参照。

※17 ただし、このトーナメントでは採用されなかった。

※18 この辺のところは、第三章の三「競技としての麻雀」参照。

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