第三章 ゲームとしての麻雀
二、ゲーム麻雀
ゲームとしての麻雀については井上倰の「ゲームの世界」の中でかなりくわしい考察がなされているが、ここではそれに準拠しながら、さらに私自身の体験的な感想をつけ加えてその魅力を分析してみる。
麻雀の第一の特徴と言えば、やはり、麻雀が「実力のゲーム」と「偶然のゲーム」との中間形態であって、ゲームの対極的な二つの要素を含んでいることだろう。
ゲームの分類法にはいろいろあるが、ゲームを「ルールに支配される競争の遊び」と定義し、そのゲームの世界の中でプレーヤーが平等化されているもとでは、各種のゲームは二つの対極的な方向に分化する傾向を示す。一方は勝敗の決定に運が介入することをできるだけ排除して能力主義を貫徹させる方向、他方は逆に、能力主義を否定して勝敗の決定を運だけにゆだねる方向である。前者の方向に構造化されているゲームは、各種スポーツ競技、囲碁、将棋などであり、後者の方向に構造化されているゲームは、ルーレット、ダイス、丁半遊びなどである。カイヨワの類型(※1)によれば、前者は「競争」に、後者は「チャンス」に対応するし、ロバーツらの区分(※2)では、前者は「肉体的技能のゲーム」および「戦略のゲーム」で、後者は「偶然のゲーム」ということになる。
そして麻雀はそれらの中間形態の典型的なものである。
ただ、中間のどこに位置するかは、まことにむずかしい。運三分技七分なのか、その逆か、あるいは運技五分五分なのか客観的判断をくだすことはできない。端的な例としては、囲碁や将棋で習いたての初心者が高段者に勝つことはまずないが、麻雀ならばありうることだし、そういうところが麻雀の魅力の一つでもあろう。将棋や囲碁には駒落ちなどのハンディキャップ規定があって麻雀にはないのも、「チャンス」の作用の大きさを物語っている。また、それだからこそ麻雀はギャンブルの対象となりうるのである。
しかし、ある程度長期にわたってのトータルを見れば、勝ち組と負け組とに、はっきり分かれてく る。それは明らかに技量の差なのである。技量の差がきわめて大きければ、半荘一回では絶対的ではないものの、三、四回の短期的な勝負でだいたい技量通りの成績が出るものだが、ある程度のレベルを越えたプレーヤー同士での対戦の場合、その技量の差が成績にあらわれるまでにはかなりの時間がかかる。さらに、麻雀は将棋のような一対一の競技ではなく、三人を常に相手にするため、四人のレベルが一様なときと、そうでないときによって全く違う結果が出てくる。たとえば、技量の高い順にA、B、C、Dとするとこの四人がある程度長期の戦いをしたときでも、A、B、C、Dの順になるとはいえないのである。少なくともDが勝つことはないだろうが、負けていくDのやり方が他の三者に与える影響は必ずしも平等でないので、A、B、C、の誰に得するような展開になるかわからないのである。
とにかく、麻雀の勝負を半荘で 区切って考えるのはギャンブル的な面では都合のいいことだが、将棋や囲碁と同等レベルのゲームあるいは競技としてみる場合には短かすぎる。
私としては、半荘一回はゴルフのトーナメントの一ホール分くらいに考えるのが適当であると思っている。 こうしてみると、技術と運とは全く無関係のように思えるかもしれないが、麻雀の場合そう簡単に は割りきれない。というのも、技量の高低に関係なく、大きく勝っている人の状態は明らかに「ツイ ている」のである。だからはたで見ていると、常に勝っている人はいつでもツイているように思われ るだろう。しかし、実戦上は技量によってツキを利用できる場合が多い。いや技量のある者はそうやって勝ってきているのである。もちろん、どんなに上手にやっていても絶対に勝てないようになっていることも、たまにはある。だがそれも長い目で見れば、やはり非常に低い確率の出来事であっていつも安定した成績を残すプレーヤーは、「ツク」「ツカない」に関係なく、それなりの技量を持っている、と言えよう。だから、技術的に上達を望む人にとっては、「実力」によって「偶然」を克服する、あるいはし得るというところに麻雀の魅力を感じるのである
しかし、一般にはむしろその反対の「偶然」に楽しさを求める人の方が多いかもしれない。
リーチの一発役や裏ドラなどが流行し、定義したのにもそれが見られるし、そもそも、たいていの麻雀ファンは半荘何十回、何百回のトータルの勝ち負けを気にするよりも、その日その時のゲームで、勝てば喜び、負ければ今度こそ、と思うのである。
一般に勝負ごとをする人は負けずぎらいが多いようだ。やるからには勝ちたいと思うし、勝利の気分がなんともいえなく感じる人も多い。しかし、勝負を気にせず、牌を握るだけで楽しいという人も少なくない。これは、ゲームそのものに内在する魅力のせいであろう。もちろん、麻雀に限らずあらゆるゲームには勝敗にかかわらない魅力があるものだが、とりわけ麻雀が持っているのは「現実性」である。「われわれの生きている世界の小世界」であり「他のどんなあそびごとよりも切実である」と言った人がいるが(※3)、言い代えれば「麻雀は人生の縮図」である。先程ふれたような、どんなに「人事」をつくしても、すべて悪い結果になるとき感じる挫折感、あるいは「不条理」の感覚、また一つのきっかけをうまくつかむと、その後すべて順調にことが運ぶ場合、あるいはその逆の場合など、どれをとってもあまりにも現実的である。
麻雀をこれほどにしているのは他のゲームには類をみない「複雑さ」にある。
「複雑さ」は、すでに述べた運の占める割合、言い換えれば「人事」と「天命」の配合にもあらわれているが、ゲーム内容、ルールも当然複雑である。現行の麻雀は恐らく、この地上で最も数多いきまりを持つゲームである。ゲーム内容は基本的には「組み合せ」のゲームだが、五十二枚のトランプ(ジョーカーを入れれば五十三枚)や四十八枚の花札に比べて、麻雀の牌は三十四種百三十六枚あるので、その組み合わせはずっと複雑になる。また麻雀は四人のゲームであるから、常に三人が相手である。それでいて、たとえば高い手の者をあがらせないために、残りの三人が暗黙のうちに協力する場合があるように、各人の利害得失にもとづいて、四人のプレーヤーのあいだに絶えざる離合集散が生じる。そういう多元的でしかも流動的な対立の構造を含むことが、麻雀のゲーム展開をますます複雑なものにする。これだけ複雑なゲームをやっていく(ただ参加するだけでなく、「勝つ」という意志をもってやっていく)ために、プレーヤーは柔軟な、そして適確な状況判断をしなければならない。
三人の相手の状態を無視して自分の手づくりだけに専念していれば楽であるが、それではツイている時にしか勝てないレベルから抜け出せない。
あるプレーヤーの手づくりは、常に他の三人の手づくりの方向や速度に拘束される。どんなに自分が高い手であっても、ふりこんで相手をあがらせてしまったら何にもならないのである。だから、麻雀のある状況に即応した「最適解」というのは、理論上の最大確率や、あがりへの最短距離の追求だけではない。時としては、すでにできあがっている手をくずして、もう一度あがりを目指したり(まわし打ち)、あるいは手を完全にくずして、その局はあがりをあきらめる(おりる)こともあり、それが最適解、ということも多いのである。その点で、麻雀は構成(コンストラクション)のゲームでありながら破壊過程を含むのである。手づくりのプロセスは、構成-破壊-再構成と言えよう。
以上のように、自分の手は相手三人の状態によって、制約されるが、他人の手はこちらからは見えない。捨て牌とフーロ牌(ポンやチーでさらした牌)、それに自分の手牌といった「見える部分」から「見えない部分」「かくされた部分」を、推測しなければならない。その際の「読み」は、確率的ないし論理的推理が基本であるが心理的な読みもかなり重要である(※4)読まれる側は相手の読みを狂わそうと、捨て牌などに工夫をこらす。「スジひっかけ」などのいわゆる「迷彩」をほどこすのである。読む側は、そういったことに惑わされずに読まなければならない。相手のごくわずかな表情の変化、動作、ことば(※5)なども手がかりとして利用するのである。しかもプレーヤーは、それらを瞬時のうちに考え、決定を下さなければならない。麻雀は将棋や囲碁とちがってゲーム進行にテンポがあるので、長考するわけにはいかないのである。こうしてプレーヤーには、かなり複雑な情報処理能力が要求される。
このような過程を経て完成したあがり(和了)の形にもさまざまな種類があるが、高い役の手には美しさがあり、それも魅力の一つである。
清一色、一気通貫、三色同順など、点数的にも高く、外見的に美しい手を意識して作る時などは、創造の楽しさみえ、感じさせる。というのも、麻雀では全く同じ配牌、ツモということが確立的にも体験的にもほとんどありえないので、一局ごとに新しい牌譜が作り出されると言ってもよい。そして、四人の捨て牌と手牌それぞれの微妙なからみ合いによって作り出される牌譜に美を感じる人も少なくない。もっとも、すばらしい牌譜は四人のすぐれたプレーヤーがそろわなければ、なかなかできるものではないが、とにかく、「麻雀の美学」があってもおかしくないのである。
以上のようにゲームとしての麻雀の特徴、魅力について考えてきたが、これほど複雑なゲームだけに、楽しみ方にもいろいろな段階がある。そしてやればやるほど、新しい魅力の出てくる、底の深いゲームである。強くなるためには技量と、自分の手づくり及び「読み」が大きな比重を占める。それらは論理的思考の能力、及び心理的洞察力を必要とする。さらに「忍耐力」をはじめとする精神的な強さも要求される。むしろ、技術的に大差ない場合の勝ち負けの差は、精神的なものである。精神面がすぐ勝負に反映するという点で、麻雀は非常にメンタルなゲームである。
【注】
※1 ロジェ・カイヨワ 「遊びと人間」 一九五八年·岩波書店。
※2 J. M. Roberts, M. J. Arth and R. R. Bush, Games In Culture, American Anthopologists, 61, 1959.
※3 黄雀風「賭博か競技か-麻雀の一般概念—」日本麻雀連盟編『麻雀』
※4 この点では、トランプのポーカーなどとも共通点がある
※5 競技麻雀では「ポン、チー、カン、ロン、ツモ」以外のことばは禁じられている。