麻雀新聞第224号 1994年(平成6年)3月10日
徹夜で60半荘闘う『雀魔王戦』 活躍目立つプロ雀士
全国的にマージャン店が増えるにしたがい、双葉社主催の「麻雀名人戦」やマージャン用具のかきぬま主催の「かきぬま王位杯争奪戦」などに出場希望者が増え、マージャン熱も高まってきた。
マージャン競技大会の数も増え、各地の大会で腕をみがいた若者たちが、名人戦・王位戦の2大タイトル戦に挑戦するようになり、その人たちの中からプロ雀士を目指すものもいた。
マージャンを打つことを職業とし、新聞、雑誌などにマージャンの技術論を書いた原稿料、マージャン大会にゲストとして出演し、模範対局をして対局料、集会などでマージャンに関する話をして講演料などの収入で生計を立てていくものだ。
しかし、囲碁や将棋の世界と違って、まだマージャンのプロの道は険しかった。名実ともにプロとして認められている人は少なく、小島武夫や灘麻太郎、そして古川凱章たちがトッププロとして活躍する程度だった。
文壇の人たちにも強い打ち手がたくさんいる。「五味マージャン教室」の著者、五味康祐氏を筆頭にして、数え切れないほどマージャンファンが多い。五味康祐氏が牌を手にしたのは、旧制中学3年生の頃だという。玄人の打ち手の中でマージャン修業をした時期があり、その経歴がマージャンを真剣に見つめさせ、マージャン理論書を書く動機につながった。それだけに、マージャンルールについて一家言を持ち、ノーテン罰符制ルールに大反対を唱えていた。
このルールが採用されてから、流局のときテンパイ者は手牌を公開せねばならず、そのために捨て牌と手牌の関係がすべて分かってしまう。そこには配牌とツモ牌の偶然性が大きく左右することになり、人と人との駆け引きの勝負は全くなくなってくる。したがって氏は、ノーテン罰符を排除し、ノーテンリーチありとして、もっと厳しい駆け引きの要素をマージャンに要求していた。
“北海道の歯ぐき熊〃の異名をとる畑正憲氏は、ムツゴロウ動物王国の主で、毎月上京するが、そのつど東京のマージャン仲間は緊張し、また楽しみにしているという。それほどに畑氏のマージャンは強く、打ち始めると一晩二晩の徹夜は平気で、最後は気力と体力で相手が参ってしまう。しかも氏は、打ち始めた時と二晩徹夜し終った時と、その姿勢はまったく変わらず、常に背筋を張って対局する。その畑氏が音頭をとり、小島武夫、灘麻太郎、古川凱章ら3人を北海道の畑氏宅へ呼び、60荘打ち通しで勝負を競った。その間一睡もしないで打つことが条件で、これを”雀魔王戦”と命名した。
日本ではじめての企画で始まった”雀魔王戦”は、長期戦に耐え抜くだけの精神力と強度な肉体を要求された。この条件を克服できる打ち手は、やはり畑氏だった。最終戦を終わるまでもなく、トータルで畑氏が抜き出て初の雀魔王についた。