【追憶の麻雀】第69回「敵国遊戯と弾圧の手」

追憶の麻雀

麻雀新聞第192号 1991年(平成3年)7月10日

敵国遊技と弾圧の手 全東京麻雀粛清同盟が発足

強まる迫害『大東亜戦争』 勤労奉仕で細々営業

 

1931(昭和6)年から翌年にかけて日本は極度の経済不況だった。この間昭和6年は抗日運動を激化させる満州事変が、さらに昭和7年には中国南部の大都市上海(シャンハイ)で日本軍の謀略による日本人僧侶襲撃事件を足がかりとした上海事変が起こった。こうした不況と戦争は国民の中に不安な気持ちを増大させた。

巷には不景気旋風が舞い、人々は何か新しい刺激を求めていた。そこへ、ギャンブルの性格の強いマージャンが広まってきたため、それまでは一部の特権階級の遊びと思われていたマージャンを、一般大衆も覚えるようになった。

やがて一般のマージャンファンが増えるにしたがい、ルールに精通する者も現れ、中国式ルールの振り込み3人払いについて問題が起こった。ツモあがりが3人払いというのは分かるが、1人が振り込んだロンあがりをなぜ他の2人が負担しなければならないのか、これは当然1人払いにすべきだという意見だ。

いかに中国式ルールといえども、不合理な点は修正すべきだという大衆の意見が影響し、振り込み責任払いの日本式ルールが誕生した。

この「放家包」ルール(振り込み1人払い)は、あっという間に全国のマージャンファンに広まり、ブームもさらに燃え上がった。

1933(昭和8)年になると大正末以来の不況は都市部から克服されだした。失業者は急速に減り、庶民は働いて生きていくことに不安を感じなくなってきた。

政府は若者の考えを社会問題からそらすためスポーツを奨励した。この頃普及し始めたラジオを通じて、六大学野球戦や相撲の人気が高まった。東京では『東京音頭』が発表され、街に盆踊りのやぐらが作られ、若者は東京音頭に合わせて踊りまくった。インテリたちは庶民の踊りへの熱狂ぶりを、迫りくる本格的な戦争への不安の表れ、つかの間を楽しもうとするやけっぱちな気分の表れ、と評した。

大衆の要望から完成した「放家包」ルールは完全に日本式ルールとして定着していった。そして慢性的な不況から抜け出たい気持ちから、勝負事としてのマージャンが社会に根付き、第一期黄金時代を築いた。

都会では軍需産業が花柳界を繁盛させ、ゴルフをする人も増えて、名士のゴルフが新聞記事になるような享楽的な雰囲気が高まった。ダンスが流行し、バーや喫茶店も増え、「麻雀倶楽部」も100店を超えた。

一方、農村部の不況は解消されていなかった。作物は安く、東北地方では冷害、凶作が続き、娘の身売りもあとを絶たなかった。

都会と農村のアンバランスが続く中、1936(昭和11)年2月26日に皇道派青年将校たちによるクーデターが起きた。青年将校に率いられた兵隊は警視庁を占拠する一方、首相官邸へ乱入し、斉藤実内大臣らを射殺した。しかし、翌日からの戒厳令公布で29日には鎮定され、クーデターは失敗に終わった。

この二・二六事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治力が強まり、マージャン営業への弾圧は厳しくなっていった。

翌1937(昭和12)年7月、日本は中国に対し全面侵略に踏み切った。いわゆる支那事変だ。中国側は民族統一戦線を結成し迎え討つ姿勢をとった。日本中で出征風景が見られ、巷では『露営の歌』などの軍歌が鳴りひびき、国内は戦争一色に塗りつぶされた。

そのためマージャン営業は軍部と警察の両方から弾圧を受け、一時は400軒を超えた営業所が人為淘汰され、東京府内(当時)で300軒くらいに減ってしまった。

巡査や憲兵が四六時中見張り、客を尋問するなど、取り締まりは大変なものだった。「お前たちの商売は日陰の身だぞ!」とあからさまに言われ、廃業する店が増えていった。

そこで平山三郎氏は、このままでは営業として成り立たたなくなってしまう、営業を続けるためには軍部と協力していかなければならないと考えた。

そして1938(昭和13)年、東京で営業していた200軒ほどの人たちに声をかけ、『全東京麻雀粛正同盟』の結成運動を起こした。個人の力ではとても抵抗できないため、組織を作って団体交渉をしていくことにしたのだ。

警視庁は、マージャンを亡国遊技として追放するためには「麻雀倶楽部」を成り立たせないことが必要だ、という態度で臨んできた。

これに対して、中国伝来のマージャン遊技では敵国遊技と呼ばれるので、日本風のマージャン遊技に転換する目的を掲げ、『全東京麻雀粛正同盟』が発足した。初代委員長には日本麻雀連盟創立に力を尽くした空閑緑氏が選ばれた。そして、同業者の会員には時局に合わせた営業を続けるよう指導した。

しかし、当局の取り締まり姿勢はますます厳しくなり、「麻雀倶楽部」は細々と営業を続けざるを得なかった。それでも、熱烈なマージャンファンは賭けマージャンの味が忘れられず、一部の「麻雀倶楽部」へ出入りしたり、無許可のもぐりマージャン店へ顔を出したりした。

日中戦争の2年目を迎えた1939(昭和14)年には、毎月1日が「興亜奉公日」と決められ、風俗営業は自粛するように指導を受けた。つまり、芸者、女給、ダンサーなどの水商売の女性は、毎月1日は官許の休日として仕事をせずに休息をとれというのだ。

逆に言えば、この日には、日本国民として時節柄、そういう施設へ遊びに行ってはならない、一日を清く過ごせと強制したわけだ。当然、マージャン営業もその中へ入れられた。

同年4月、米穀配給統制法が公布されて米は配給制になり、自由に買えなくなった。当時の日本人は、米食に慣れていたからパン、うどんなどの代用食を敬遠する人が多かった。米の入手が困難になると、戦争のための物資欠乏を身をもって味わうようになった。ちなみに、この頃のマージャンゲーム料金は、今のような1時間いくらというのではなく、時間に関係なく半チャン40銭だった。

1941(昭和16)年、日本はアメリカ、イギリス、オランダなどから戦争の必需物資の輸入ルートを断たれた。その対抗措置として陸軍は戦争開始を主張したが、首相の近衛文麿は消極的だった。やがて、軍と意見が合わない近衛首相は退き、代わって陸軍大将東条英樹が首相の座についた。軍は日本を支配し、ついに12月8日、対米英戦争が開始された。これが大東亜戦争だ。

マージャンの戦前の最盛期は1940(昭和15)年頃で、約400店だったが、時局が日増しに深刻化し、マージャン業界は多くの難問を抱えるようになった。

全東京麻雀粛正委員長の空閑緑氏は退任し、平山三郎氏が委員長に就任した。

戦争の進展と共に、マージャンは野球などと同様に敵性遊技として白眼視され地位も低くなり、一般の人から敵視されるようになった。深夜に「亡国的営業をやめよ」と店先に貼り紙をされたり、夜の営業時間中の店内に投石されるなど現在では到底考え及ばない、ひどい迫害を受けた。

軍国的権力による圧迫はますます強くなり、一部の府県ではマージャン営業を禁止する動きも出てきた。

そういう世相の中で平山氏は先頭に立って指導にあたっていたが、いつかは東京もこの動きに巻き込まれ、このままでは会員が生活の糧を失ってしまうと考えた。

そこで1943(昭和18)年、粛正同盟の組織を強化し名称を『東京市卓技商業報国会』と改めた。当時は「麻雀」という字句は許されなかったため、「卓技」と表現した。

代表者をはじめ役員は、警視庁玉川寮における「みそぎ」に参加したり、1944(昭和19)年から1945(昭和20)年にかけては約150人の業者を東品川の煙草専売局へ勤労奉仕に送るなど、営業全面禁止を避けるため、あらゆる手段を尽くして軍部に協力した。そして、夕方5時には帰宅し、夜だけマージャン営業をした。

 

(つづく)

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