【追憶の麻雀】第66回「紙牌から全自動へ2」 | 麻雀新聞

【追憶の麻雀】第66回「紙牌から全自動へ2」

追憶の麻雀

1991年(平成3年)4月10日 第189号

 

紙牌から全自動へ

麻雀クラブ盛衰記 (2)

 

中国から渡来したマージャンが本家の中国以上のブームを生み、マージャンファンが増え、それに伴いマージャン経営を業とするマージャンクラブ、そしてマージャンを打つことを職業とするプロ雀士が出現するなど、中国はもちろんのこと、わが国でも予想ができなかったことだ。

 

現在は娯楽の多様化などが原因してマージャン店へ来るファンの数は減少しているが、まだまだ女性愛好家をふくめて熱心なファンがいる。

 

マージャンクラブの数はひところに比べれば少なくなったが、まだ全国で約2万6000軒、東京だけでも約5200軒の店が営業している。

 

マージャンのルールやマージャンクラブの形態は、昔と比べると、すっかり変わってしまった。今や中国文化というより日本固有の文化として成長し、昭和の初期にはアウトローのたまり場とされていた「雀荘」も、社交場としての「マージャンサロン」に生まれ変わってきている。

 

21世紀へ向かってマージャン業界はどう変わっていくのか。それを占う一つの材料として、中国伝来のマージャンのルーツを探り、日本におけるマージャンの成長過程と業界の歴史を回顧してみる。

 

なお、この稿をまとめるに当たり、次の資料を参考にさせていただいた。

『麻雀大百科』(双葉社)『麻雀High戦術』(後藤啓司・大泉書店)

日本渡来に二つの説

流行は文十グループ

 

日本にマージャンが渡来したのはいつ頃なのか、確実な資料は残されていない。おぼろげながら、明治の終わりに近い43年(1910年)頃、名川彦年という人が中国から一組のマージャン牌を持ち帰ったと言われている。それも、持ち帰っただけで、その牌を使って名川彦作氏がマージャンを教えたという記録はない。

 

同じ頃に、夏目漱石が、中国でマージャン牌を使って遊んでいる人を見た感想を「満韓ところどころ」という紀行文にまとめたのが残っていてその一文には次のように書いてある。

 

「道具は頗る幼稚なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角行に当る札を五、六〇枚ほど四人で分けてそれを色々に並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方に色々な模様が彫刻してあった。この模様の揃った牌を何枚か並べて出すと勝になるように思われたが、要するに竹と象牙とがぱちぱち触れて鳴るばかりで何が何だか一向に分らなかった」

 

この文からみても、まだゲームの内容が理解できないままに、中国の珍しいゲームくらいにしか感じていなかったことが分かる。

 

その後、1914(大正3)年に西森鶴吉という人が中国からマージャン牌を持ち帰り、その遊び方を教えたというが、これも一般に広まったという記録はない。日本人の間でマージャンゲームとして遊ばれるようになったのは、1921(大正10)年過ぎだったと言われている。

 

このほかに、マージャンの日本渡来について二つの説がある。一つは、発祥の地である中国から直接輸入されたというもので、前島吾郎、林茂光、空閑緑などの日本の名士が中国で自ら麻雀を覚えて帰ったという説だ。

 

もう一つは、中国で流行したマージャンがアメリカやヨーロッパへ伝わり、その地に遊学していた人たちが日本へ持ち帰ったというものだ。この説によると、1920(大正9)年にアメリカでマージャンの指導書として『Mahjong』が出版され、1922(大正11)年になると、サンフランシスコの木材業者W・A・ハモンドという人が中国からマージャン牌を大量に輸入して、またたくまに売り切り、アメリカ中に流行した。その後、1923(大正12)年にはアメリカからイギリスにマージャンが渡り、イギリス国内でもはやり始めたという。

 

なお、1924(大正13)年には日本でも初のマージャン指導書『麻雀』が林茂光氏の著として出版され、たちまち売り切れてしまったという記録がある。

 

こうして記録をたどってみると、中国から直接渡来したものと、アメリカ・イギリスへ渡ったものが日本の遊学生によって日本へ伝えられたものと、二つの道があったものと思われる。

 

いずれにせよ、1925(大正14)年、マージャンはかなりの勢いではやり始め、日本のマージャンの基礎時代を作ったといえる。

 

特に、雑誌『又芸春秋』とかかわりの深い又士たちの中には、アメリカで覚えてきた人もあったが、それが文壇雀士グループを形成し、菊地寛、久米正雄、直木三十五、里見弴といった人たちの間で流行した。

 

しかし、当初は一部のエリート階級の間の遊びとみられ一般庶民には無関係な遊びだった。

 

当時のルールは、二十二副底(アルシーアル・フーテイ)マージャンで、振り込みによるロンあがりも3人払いとする中国式ルールだった。現在のオール・イーハンしばりルールからみると全く隔世の感がある。

 

ルールは時代によって変化しているが、マージャンの面白さはいつの世でも変わらない。戦後の『りべらる』誌上に随筆家・佐藤弘人氏がマージャンゲームの面白さを書いているので紹介しよう。

 

「室内遊戯で麻雀ほどおもしろいプレイはない。阿片の如きものだという者もいるがあるいはそうかも知れない。なぜそのようにおもしろいのか。これはいろいろな理由があろうが、私にはその遊技の中に、人間本能を満足させる建設と破壊の行為が含まれているからだと思う。つまり人生最高の本能たる限りなき創造の美しさが、その遊技に展開されるからである。しかもその美を一層昂揚するために破壊の興奮も併行しているからである。

与えられた13枚の配牌を取り換え取り換えて、あがリへ持って行くまでの建設への努力や、苦心がやっとむくいられて、たとえそのあがりが22点であっても、あがったときの完成の嬉しさ、創造の美しさは何ともいえない。しかもそれが同時に相手の建設を破壊するにおいては、なおさらであろう。ここに二重の喜悦がある。

(中略)

麻雀はスリルと興奮を味う終末のないスリルの連続で、スリルの終極がこの様な創造の美しさに至り、破壊のみじめさになるので、ここに無常のおもしろさがあるのである。

自分のあがりを、美しいもの、善なるものとし、相手の破壊を醜なるもの、悪なるものとするならば、この遊技の中にはおのずから美と醜の対立、善と悪の対立があって、闘争・調和・発展の各段階が織り込まれていることになる。

したがって、遊技そのものは、弁証法理論の根本契機の一つである対立物の統一の原則に従って行われていることがわかる。複数でおもしろいのは当然であろう」

 

これはまさにマージャンの本質を突いているといえるだろう。

平山三郎氏(故人)が草分け

大正14年『麻雀教授所』開く

 

さて、東京都麻雀業協同組合(東雀協)の前身である東京麻雀組合連合会の初代会長・平山三郎氏(故人)は1913(大正2)年に所沢飛行場に入隊した。翌1914(大正3)年、欧州大戦の余波で日本はドイツ軍と青島(チンタオ)で開戦したため、平山氏は所沢の一兵卒として中国に出征し、18師団司令部付きを命ぜられ、李ソンという町に派遣された。

 

その年の11月、日本軍はドイツ軍の要塞に総攻撃をかけ3日間にわたる猛攻撃の末、青島陥落の勝利になった。この時、平山氏は山梨半蔵陸軍少将(参謀長)専用の運転手をしていた関係で、青島に2、3日待機することになったため、初めて本場中国のマージャンを見ることができた。そして、勤務のかたわら中国人からマージャンの遊び方を教えてもらったが、余りの面白さに、帰国の際、一組のマージャン牌を買って持ち帰った。

 

ところが、周りにはマージャンを知っている人が一人もなく、遊びたくても遊ぶことができない。そこで平山氏は身近な人にマージャンの遊び方を教えていった結果、次第にファンが増えてきたが、さらにマージャンの面白さを日本中に広めようと思い立ち、1925(大正14)年、数寄屋僑(現在のソニービルの場所)に『麻雀教授所』の看板を出して一般の人たちに教えることにした。

 

しかし、教授所となると教授料しか取れないので収入面で満足できず、もっと収入の多いマージャン遊技場を開くことを考えた。マージャン卓を貸して半チャンまたはイーチャンいくらという方式で遊技料金をもらう商売だ。こうして、日本で初めてのマージャン貸卓業が開始された。

 

もちろん、その当時のことだから、今のような近代的な設備などそろうわけがない。

大部分が荒削りな五分板を打ち付けた四角いお粗末な座卓で、それに白い布を張った程度のものだった。点棒入れも、引き出しなどについていないから、わきに置いた木箱へ入れたり、瀬戸物の小鉢やどんぶりを使ったりした。

 

平山氏に続いて、空閑緑氏も四谷に『東京麻雀会』というマージャンクラブを開いた。

これをきっかけにして、銀座4丁目に『東京麻雀倶楽部』、有楽町に『丸の内倶楽部』、日本橋に『人形町倶楽部』と次第に店が増えていった。この頃のゲーム料金は、1日の席料として20銭を支払えば自由に遊べた。

 

(つづく)

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