1991年(平成3年)3月10日 第188号
紙牌から全自動へ
麻雀クラブ盛衰記 (1)
中国から渡来したマージャンが本家の中国以上のブームを生み、マージャンファンが増え、それに伴いマージャン経営を業とするマージャンクラブ、そしてマージャンを打つことを職業とするプロ雀士が出現するなど、中国はもちろんのこと、わが国でも予想ができなかったことだ。
現在は娯楽の多様化などが原因してマージャン店へ来るファンの数は減少しているが、まだまだ女性愛好家をふくめて熱心なファンがいる。
マージャンクラブの数はひところに比べれば少なくなったが、まだ全国で約2万6000軒、東京だけでも約5200軒の店が営業している。
マージャンのルールやマージャンクラブの形態は、昔と比べると、すっかり変わってしまった。今や中国文化というより日本固有の文化として成長し、昭和の初期にはアウトローのたまり場とされていた「雀荘」も、社交場としての「マージャンサロン」に生まれ変わってきている。
21世紀へ向かってマージャン業界はどう変わっていくのか。それを占う一つの材料として、中国伝来のマージャンのルーツを探り、日本におけるマージャンの成長過程と業界の歴史を回顧してみる。
なお、この稿をまとめるに当たり、次の資料を参考にさせていただいた。
『麻雀大百科』(双葉社)『麻雀High戦術』(後藤啓司・大泉書店)
木の葉・木片が紙牌に
『馬吊(マ ティヤオ)』は麻雀の原形
マージャンが中国で誕生したことは衆知のことだが、いつ頃、中国のどこで生まれたかという確実な資料がない。
日本で最初に発行されたマージャンの入門書は、林茂光著『支那骨牌・麻雀』だ。この人は本名を鈴木郭郎といいこの本は1923年(大正12年)7月に本郷の文英堂から出版された。
初めてのマージャン解説書だったから、大変好評でベストセラーになっている。
翌1924年(大正13年)11月には、井上紅梅著『麻雀の取り方』が青島(チンタオ)で日本語版として出版されている。この本には「麻雀は昔の葉子戯(エー・ツー・シー)から起って骨牌化したもの」と書いてある。葉子戯とは、木の葉を便った遊びのことで、西暦760年(奈良時代)頃の中国民族が、退屈しのぎに木の葉や木片を拾い集めてきてそれを組み合わせて遊ぶゲームを考えた。その組み合わせ方は何通りにもおよび、複雑な遊びだった。
その後、紙が出始めたことにより、木の葉や木片が紙に代わった。紙にいろいろな絵や文字を書いて、その組み合わせで遊ぶようになってからこれを「紙牌」(チーパイ)といい、遊び方もさらに複雑になった。この頃からこの遊びは馬吊(マーティヤオ)と呼ばれた。
馬吊は、現在のマージャン牌と違って40枚の紙牌の種類は、ワンズ、ソーズ、ピンズに相当する万貫牌(ワンガンパイ)・十万貫牌(シーワンガンパイ)、索子牌(ソーズパイ)、文銭牌(ウエンチエンパイ)に分かれており、4人で遊ぶことは今のマージャンと同じだ。
これが盛んになったのは、1620年代の明末天啓時代だといわれている。この遊び方は、4人に8枚ずつの手札を配り、残り8枚が場のめくり札になって、順番に手札を交換しながら絵を合わせるものだ。日本で遊ぶ「花合わせ」と似ている。
馬吊の流行と並んで明未時代に游湖(ユーホ)という遊びが出始めた。馬吊に似ているが、これは60枚の絵札を使って遊ぶものだ。
さらに、同じ明時代の未期には、骨牌(クーパイ)を使った遊びが生まれている。これは紙でなく、牛か水牛の骨を使い、竹片で裏打ちしたもので、105枚の牌で遊ぶものだ。これが今日のマージャンに一番近いゲームだと言われている。
中国語で”マージャン”のことをマーチャオというが、馬吊と発音がよく似ている。その馬吊から、なせ「麻雀」の名称に変わったのか。紙牌の馬吊から骨牌を使うようになり、上等の物になると象牙を使った牙牌(ヤーパイ)を使うようになった。これを手でかきませる時の音が、ちょうど竹やぶや麻の林の中でたくさんの雀が遊んでいる時に聞こえる音によく似ていることから、「麻雀」という名称が使われるようになったという説がある。
では、骨牌や牙牌を使うようになった馬吊から、「麻雀」の名称の遊技に変わったのはいつ頃なのか。これについての明確な資料は中国にない。
しかし、1865年に現在の形に近い「麻雀」が断江省の寧波(ニンポー)で誕生したと推測されている。
初期の麻雀は、万子(ワンズ)、索子(ソーズ)、筒子(ピンズ)9種類4枚ずつ合計108枚で構成されていた。その後、ゲームを面白くするために内容を複雑にし、風牌(フォンパイ)の東、南、西、北4種類と三元牌(サンユァンパイ)の紅中(フォンチュン)、緑発(リューファ)、白板(パイパン)3種類各4枚ずつを加えて136枚の牌構成になった。これが清末咸豊年間つまり1850年代の頃と伝えられている。
これらのマージャン牌の由来を探ってみると、中国人は人生の現実的理想を牌の図柄にゆだねているから面白い。
もともと中国辺境の住民たちは、貧しい生活に疲れ果て、金や財産、地位や名誉が人間の生命以上に大事な宝だという意識が強かった。だから紙牌賭博が盛んになり、後にマージャン賭博に発展したといえる。
ここでちょっとわき道へそれるが、賭博の歴史をみてみると、古代から日本を含む世界のあらゆる地域で賭博が盛んに行われ、賭博を好む民衆と、それを取り締まろうとする為政者との間でいたちごっこが繰り返されているから、特に中国人が賭博好きとはいえないようだ。(参考=増川宏一著『賭博』全3巻・法政大学出版局)
三元牌は『福・緑・寿』
風は四季の喜び象徴
さて、馬吊の文銭はマージャンの筒子であり、中国の穴あき銭をかたどり、馬吊の索子はマージャンでも索子といい、もともと穴あき銭をたくさん集めて保管する時に使うひもを意味し、馬吊の万貫と十万貫はマージャンの万子に相当し、一生懸命稼いだお全を表現したものという。これらはすべて中国人の金銭尊重の精神と現実主義の考え方を表している。
これを裏付けるように、中国マージャンでは点捧を一切使わず、一局ごとに現金でやりとりをしている。つまりマージャンは生まれた時から金銭をやり取りするゲームであり、本質的に賭博性を持った遊びといえる。
もっとも、先の『賭博』3巻本によれば、およそありとあらゆるゲーム、竸技が賭けの対象になっているから、マージャンの賭博性だけを特に強調するのは理に合わないし歴史的事実にも反する。
次に三元牌の紅中、緑発、白板だが、これには中国人らしい意味が含まれている。中
国では人生の理想を福、禄、寿の三語にゆだねているが、マージャンでは福は紅中、禄は緑発、寿は白板で表現している。
福とは精神的な幸福でありその代表的なものに結婚がある。中国では1組の男女が正式な夫婦になることを、紅事(フォンシー、おめでたの意味)といい、おめでたい色を紅色で表現している。つまり、紅中牌は人生の精神的な幸福を意味している。
禄とは栄禄で経済的な幸福であり、立身出世をして偉くなり、お金をためて楽しく豊かに暮らすことが理想的な生き方だ。商人になっても、その道で大成功をし、名誉と地位を得て財産を残すことが願望であり、これを緑発牌に託している。緑発の緑は物の豊かさを表し、発は財産を築くことを意味している。
寿とは長寿の意で肉体的な幸福だ。生あるものはいずれ死を迎えるが、事故死や病気でなく、天寿を全うして息を引き取ることが理想的な生き方だ。中国人は長寿の末の大往生を最高の幸福と考え、中国では葬式のことを、白事(パイシー)といい、喪服の類はすべて白色で統一している。
つまり、白板牌には長寿への願望がこめられているということだ。
三元牌が象徴する別な意味として、マージャンはもっぱら宮廷の中で遊ばれていたということから、宮廷に仕える官女を表現しているという説もある。
つまり、緑発は黒髪、紅中は口紅、白板はおしろいだというのだが、これは男性側から見た狭い解釈であり、一般的とはいえないと思う。前記のような、人生を福、禄、寿の理想的な願望になぞらえた見方の方がふさわしいと思う。
さて四風牌は、別名四喜牌(スーシーパイ)ともいい、人生の四季それぞれの楽しみ方を東、南、西、北の4種類で表現している。
つまり、春は東風牌、夏は南風牌、秋は西風牌、冬は北風牌というふうに四季を象徴している。
人生には、福、禄、寿の楽しみもあり、四季に応じた生活の中で充実した一生を送りたいという願望もある。
このように、中国人は自分の夢を136枚のマージャン牌に託してマージャンゲームを愛好したが、1949年に中共政権が確立されてからは、マージャンはブルジョア的な亡国遊技と言われ、全面的に禁止になってしまった。
その間に、中国で誕生したマージャンは日本ですくすくと育ち、今では日本マージャンになって立派に成長した。
(次号へつづく)